現在でこそ当たり前のようにヨーロッパのサッカーリーグで日本人が活躍していますが、かつてそれは、まさに夢物語でした。そんな時代にドイツに渡り、そして活躍した選手がいます。彼の名は奥寺康彦。日本人初のブンデスリーガ所属選手であり、日本人初のヨーロッパトップリーグ所属選手です。
へネス・バイスバイラーとの出会い
プロリーグのなかった当時の日本で、アマチュアリーグ、日本サッカーリーグの古川電機工業サッカー部に所属していた奥寺。そこで日本代表に選出されるまでになった彼は、ある人物との出会いでドイツへと移籍することになります。その人物がヘネス・バイスバイラー。当時ブンデスリーガ、1.FCケルンの監督だった男です。
彼は当時の日本代表監督、二宮寛の友人で、1977年に日本代表が西ドイツ(現ドイツ)で合宿をおこなったときに、その縁で数名の代表選手を1.FCケルンのキャンプに参加させることになったのです。その中に奥寺も含まれていました。そこでバイスバイラーに認められた彼に、1.FCケルンは3年契約のオファーを送り、ここに日本人初のブンデスリーガ選手が誕生したのです。
1年目での優勝と移籍
当時左ウイングとしてプレイしていた奥寺は、見事1年目から1.FCケルンで活躍。公式戦6ゴールをあげ、チームのリーグとカップ戦の2冠達成に大きく貢献しました。その後も1.FCケルンの主力として活躍を続けた奥寺ですが、移籍4年目の年に、彼を見初めたバイスバイラーが移籍。
新たにやってきた監督リヌス・ミケルスは、奥寺を評価しませんでした。そのため2部のヘルタ・ベルリンへの移籍を余儀なくされた奥寺ですが、その後1部のブレーメンへと移籍し、そこで第2のピークを迎えます。結局彼はブンデスリーガで10年プレーし、通算296試合出場、38得点を記録しました。それは当時の日本のレベルを考えると、信じられない数字だったのです。